2009年1月22日 (木)

宮城県に配置された国事犯(配置された人々)柴  修也

Photo 図・・・宮城県に配置された国事犯の名簿

 鹿児島県立図書館資料「国事犯処刑懲役人配置名簿(左図)によると宮

城県に配置された国事犯は305名で4回に分けて送られてきている。

 弟1回 明治10年10月19日長崎よりの分、同月23日発(東京)懲役3年片野坂弥右

  エ門ら52名

 第2回 明治10年12月13日長崎よりの分、同月15日発(東京)懲役3年永山盛香ら8

  4名

 弟3回 明治11年2月14日長崎よりの分、同月15日発(東京)懲役5年久永喜兵衛ら

  91名

 第4回 明治11年4月19日長崎よりの分、5月26日発(東京)懲役5年左近允澄明ら7

  9名

2009年1月17日 (土)

宮城県に配置された国事犯(宮城集置監誕生)

Photo 写真・・・西南戦争の国事犯を収容するために時の内務卿大久保利通の命により開設された宮城集置監六角獄舎。

この獄舎には明治12年10月国事犯13名が収容された。

2009年1月14日 (水)

国事犯の護送(大河原~仙台)

Photo_2 明治11年11月20日 晴れ

 大河原出発(1里11丁)~舟迫(1里半)岩沼・昼休・増田へ壱里35丁・館腰・増田(25丁)~中田(35丁)~長町(1里余)~仙台到着

 広瀬川を渡る時心に沈みしまま

 ○ 旅にして 渡るも床し広瀬川 我が故郷の おなじ名なれば

 仙台は流石大藩の跡なれば、人烟秱密街衛も宏潔にして此街道筋にては第一の繁華に地とおもはるる。次は指を宇都宮・福島白河に屈す。

 11月3日長崎港から船で一路横須賀へ、同月7日横須賀着、同10日東京発11月20日仙台着

 西南戦争終結から裁判、刑の確定ごそらぞれの都道府県に護送されたが、その中で記録が残っている宮城県に護送された305名の国事犯たちの足跡を追ってみる。そこではこれまでに知られていない、国事犯と宮城県民の心あらたまる交流があった。

  第二部として「宮城県に配置された国事犯」を連載するので引き続き宜しくお願いします。

2009年1月12日 (月)

国事犯の護送(福島~大河原)

Photo 明治11年11月19日晴れ

 福島出発(1里22丁)・左米沢12里、然るに板谷峠、雪深きを以って冬節はこの道よりすべからず・松川橋有り。瀬の上(1里10丁)・摺上川を渡り。桑折(1里6丁)・左上の山より山形道、・~藤田(1里13丁)~越川(1里14丁)~斎川「1里19丁)~白石(1里21丁)・昼休み・~右角田道相馬道・白石川を渡る・~刈田宮(1里2丁)・左山形道、子捨川橋~金ヶ瀬(29丁)大河原宿泊

 白石川筋には、白鳥とて(羽色、純白雁に似て大なり)数百千も打群れて、或いは芦洲に休食り、水上に浮みて喧しく鳴渡れり、土人呼んで神鳥となし(白鳥神社あり)て之を射ざるのみならず称呼敬を加え、他鳥を以って之を視るざるに至る。故に能く人に馴れて、聊驚く色なし。

 扨て、追々北地に入るに随て諸鳥類甚少なく稀に烏雀の類を見るのみ、盖し冬節雪深くして餌なきによるならん。只、宿駅店上雉子を拄くる処は間々之あり。二本松辺より今日通過せし桑折などは、別而養蚕の盛なる処とみえて満薗悉く桑を植え培養向等余程注意せしものと覚えたり。

 桑折の村を通るとて、篤宲ぬし

 ○ 里人の春のにぎわい思いやれこかひいとなむ桑折のさと

2009年1月11日 (日)

国事犯の護送(本宮~福島)

2_2 明治11年11月18日(晴れ)

 朝、本宮出発(2里33丁)~二本松(2里8丁)~八丁目(1里17丁・昼休み)~清水(1里23丁)ス川橋を渡り。

沿路、宿村学校ならざるはなし。門前必ず一大票木を建て、学区番号等を大書せり。毎校必ず名称ありて、或いは明倫舎・時習館・啓蒙学舎等の雅名をもちいひたり。

 而してその内を窺えば、多くは旧寺院等を用い、生徒亦甚多を見ず。(教則の正否、生徒の進否は因より知らず、只外見に付きて云うのみ) 特に福島県下には頗る宏麗の学校多し。

 極めて平坦なるが中に、福島県境に入りては殊更道路橋梁の着手に汲々たるを覚ゆ。日本の冀北とも云うべき処なれば、道路馬群、(上岡へ売る者)結澤不絶。

2008年12月11日 (木)

国事犯の護送(矢吹~本宮)

 001_2                        明治10年11月17日晴れ

 矢吹出発笠石へ、(1里2丁)久来

石、笠石(1里15丁)。須賀川(3里9

丁)。迦堂川橋を渡り、郡山(昼

食)、高倉へ(17丁)右に三春道あり、

安積山。五百川橋渡り。高倉(1里六

丁)。本宮泊まり。

2008年11月11日 (火)

国事犯の護送 (芦野~矢吹)

明治10年11月16日 雨のち雪(芦野~矢吹)

 芦野出発。白坂へ三里余、寄居,堺明神。白坂(一里三十五丁)白河(昼)、鳥津道あり、阿武隈川橋、小田川、矢吹一泊。

Photo_3 今日は、又朝よりかき陰り、野辺の枯れ草吹く風のさらても寒き旅衣、雪となり又雨となり手足もシビレル程なりき。白河駅に至るころ、雪吹く風すざましき、さても名におふ白河は、奥羽の道の一要所、昔、三関・勿來・安宅の一ツにして故ある処なりければ形もそれと見へひける。思えばここは中々にいとも過ぎうき処なれ。

 去る戊辰のその昔、殉難諸士よ餘所ならぬ、従弟や又友どちのその遺骸を葬りしあはれ墳墓のあるところ、何処なるそと見廻せば、駅の中央の標木に墓地のしるしのあざやかに、大文字に記したる。

2008年11月 9日 (日)

国事犯の護送 作山から芦野まで

Photo 明治10年11月15日(晴れ)

 作山出発。(一里二十八丁)大田原・日光、黒羽、那須野道あり。(三里ニ丁)鍋掛(八丁)、中川橋・越堀にて昼休み(二里六丁)。芦野一泊

○ 見るめさへ淋しく暮れて松風の音も見にしむ那須野篠原

           ○ 打向ふ雪の八重山吹きおろす嵐やさむき那須野篠原

 国事犯が那須野を通る際に詠んだ句

2008年10月29日 (水)

国事犯の護送(宇都宮~作山まで)

Photo 明治11年10月14日晴れ

 宇都宮出発、右鹿沼・左日光、白沢へ2里25丁、氏家へ1里30丁、阿久津川舟渡し、1里25丁、喜連川昼休み、作久山一泊

 今夏の大嵐は尤も暴列なりしとみえて、沿路樹を抜き、屋根を破り、これが為道路の障害をなせしところ往々之有、今日打ち過ぎる那須野原は、喜連川と佐久山の間にあり、乃下野、陸奥の境たり。荒涼たる一郊堌にして極目10里、風景寥寞、過客覚えず凄愴の念を壊きぬ。

2008年10月24日 (金)

国事犯の護送(小山~宇都宮)

Oyama  地図(小山~宇都宮)

 明治10年11月13日小山出発、右結城・左日光道あり、小金井へ二里十丁。大沢、羽川・小金井、雀宮へ一里ニ十丁、石橋、雀宮、昼休み二里六丁宇都宮一泊

   宇都宮は、去る戊辰の役、賊大鳥圭介、城に投じて善戦し、官軍と互いにこの地を争いて僵屍途に横り、鮮血川をなせしとぞ。山川今に至る迄、猶惨愴の色帯び、市街も衰退の色あらわにしたり。此街、その時戦塵を蒙りしは、只独りここのみならず。二本松、本宮、小田川、根田、泉田及び、白川の諸々も又同じく戦地となりし由、道すがら該処を行き過ぎる。

 折りしも冬枯れし木々の木の葉の袖の上にはハラハラと落ちながら、そここに散り残りし紅葉の見へけるは、猶血痕の残るかとも思われて、いとど見る眼を傷ましめ,梢に伝ふ小鳥の音さえ、幾度か旅魂を驚かしむ。

«国事犯の護送(栗橋から小山まで)

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