2008年3月26日 (水)

国事犯の娘

2 平成20年3月24日河北新聞東北の本棚の蘭に次のような記事が掲載された。

 歴研みやぎ第75号巻頭に,小論「国事犯の娘川村春子について」を掲載した。西南戦争に敗れ,国事犯として宮城県に配置された鹿児島県人の一人が椎原国幹(西郷隆盛の叔父)である。獄中で病死した鹿児島県人七人の墓が,仙台の瑞鳳寺の墓域につくられた。椎原は放免され,帰郷の際,寺に供養料を寄贈,その記録を刻んだ碑(写真の右側の碑)が墓の横に立つ。椎原の娘が,政府側の重臣に嫁いだ春子だった。春子は昭和天皇の養育係りを務めた。将来天皇になる人物に対し,決してわがままを許さなかった。国事犯の娘として世間から冷たい目で見られたが,重責を務め上げた。「さすが薩摩おごじょ(お嬢さん)の鑑」と評す。春子夫人の孫が白洲正子で,その夫が東北電力会長を務めた次郎である。

2008年3月15日 (土)

国事犯の護送(10)

001 画像・・・国事犯の通行地図1日目・東京出発(石川島監獄署)・千住(昼休)・竹ノ塚・草加・越ヶ谷大沢(泊)

 道中宿泊の際は,必ず多勢を一間に置かれ(一畳敷に4人の時あり)甚手狭く殊に縄せられたまま寝に就く事にて,痒きも掻くことさえならざれば,虱は泰山の安きに居り,その豊かなるを相賀して襟袖等にゾロゾロと這い回りたり。

 監吏(看守)は椅子に腰掛け終夜枕元に相詰めて国事犯の出入りを厳しく警督せり,医官も夜回診して病囚に薬したり。三食は団飯の事あれど碗つきにてたまわる事多かりし,出発は東方未明の時にして,12里は星を載て行く程なり,又着宿も多くは夜に入る事のみなりき。途上は二列にて歩行をなし,隊列の位置及び先後の順序頗る正しく,行装宛然兵隊の如く,前後左右を警護する監吏の状態は士官に似たり。(多勢一つに繋がれて,鞭叱をうけながら行く姿をよくよくみれば兵隊の装ならで,繋がれし牛馬の群れとも覚えたり)

 国事犯の通行は珍しく,宿駅を通るごとに,老若男女傍観し舌吐き驚く者あり,顔低れて憐れみ見るものあり。時として休泊の処に着せし折々,宿の者万事心をそえ,接待の厚き過ぎるにより,監吏の叱りを受ける者など往々之あり。今夜警部より,夫々故郷,家内の者共,心もとなく案じているであろうから,一先安心のために文遣わしたき者は一通の文のみ認書を認めるので開封のまま差し出すこと,検査の上上官より郵送取り計らうべし。夕食の際牛肉をたまわる。皆懇切の志に感じそぞろに袖をぬらしたり。

2008年2月27日 (水)

国事犯の護送(9)

Photo 画像・・佃島人足寄場(別名石川島人足寄場)維新以降石川島監獄署となる。慶応2年(1866年)人足寄場南端に築かれた六角ニ層の灯台国事犯達もこの灯台に見送られ夫々の府県の監獄署に護送されて行った。

 明治10年11月9日 この度護送せられる国事犯50名位づつ夫々人数を分かたれて,本日より追々府県へ分送あり。いずれも北国にして,路程も殊更遠遼なり。遠くは200里に過ぎ又近くは100里を下らずとぞ聞こえたり。長き月日を重ねれば,又逢うこともならざねば,満期の後は皆壮健にて立ち帰り目出度く再び相逢わん,と互いに言い交わしつつ,銘々ここにて分かれたりける。

2008年2月23日 (土)

国事犯の護送(8)

Photo 画像・・佃島人足寄場(後の石川島監獄署の前身)

 明治10年11月8日 各人身体検査あり。検査医官より銘々「道中は歩行し得るかどうか問われる。即,「何処までも歩行し能ふ」と答える。同日一同温浴(入浴)を許される。宮崎以来,満身に堆き程の垢を取り去り身体の軽きを覚えたり。そもそもここは九重の都(東京)の空,うららかに往来の人い繁く,繁華の色をあらはせり。昔,この地に遊びしは,はや十とせに近かりき。風意今は痕もなく,星も移りて物換わる。そのことはりも斯くもあらん。おもい廻せば外ならん,我が骨肉の弟や姪もこの地にありければ,懐かしくこそ思えども,咎の身なれば如何せん。逢見ん事は中々に,只一封の書信さへ叶ふべくこそあらざれば咫尺も千里に異ならず。あわれ我が弟は,けふしも兄がこの島に囚われきたる旅衣,囚屋の中のいふせきに物おもふとは露知らず,心つくしの故郷は如何なるべき,とおもうらん。実に定めなき世の中は,ままならぬこそ習いなれと,思い明らめ臥しぬれど,いぶせきままに夜もすがらまどろむ暇もあらざりし。

2008年2月10日 (日)

国事犯の護送(7)

 Photo 画像・・・・明治初期の蒸気機関車(国事犯達は横浜から新橋まで蒸気機関車に乗せられて護送された)

 明治10年11月7日朝相模なる横須賀沖に着艦せり。爰にて,しばし船を留め医官数名陸の方から小船にて乗来し,病者の有無を検査せり。(コレラの予防のため)検査終了後抜碇,直ちに横浜港へ至りける。此処でも医官の検査前の如し。巳にして一同揚陸,,同地警察署にて昼食を玉ふ。横浜は以前に打ち変り,各国の軍艦・商船等木の葉を散らすが如く,ことに洋館の結構清楚愛すべく,且つ,又遊園の樹木等,其趣一ならん。

 外路地も清潔を極め殆ど驚かすばかりなり,午後4時同所より汽車に打乗り,東京へ出発す。汽車は聞くにも猶勝り,瞬く間に新橋役に到着せり。汽車の上にて同列の人,余に向かって曰く「我生来,いまだ斯の如き車に乗りし事などなし,此処こそ,所謂,地獄の火車にあらざるを得んや」と余対て曰く「此れ当る哉」一笑々々,汽車を下りて列をなし,佃島監獄署へ送られ東京の獄官へ引き渡される。しばらくするうち夜もはや更けぬれば,入監の混雑大かたならず。佃島監獄署は警護も殊更厳重で,獄吏3名,監内に相詰め,厠の前にも1人づつ終夜立ちながら監守せり。獄内は筵を敷き渡し囚人67名に各蒲団一枚位を相渡されたり。諸事取締上より3食渡し方に至る迄,規則向き能く整ふてぞみへたりし。

2008年2月 9日 (土)

国事犯の護送(6)

画像・・明治初期の長崎港

 001 明治10年11月3日,本日より東京に護送らるるとのことにより,日も西に傾き頃に監獄を立出て,港の方に赴きぬ。(当地に在りし囚人も一緒なれば,凡そ450名にも及ぶ)黄昏の頃,皆々汽船に乗り込みぬ。夜半の頃に至れば碇を抜いて出艦せり。来るときと打ち変り風も激しく浪荒たち海上頗る悪かりき。

 同月4・5日,両日は風雨殊更激しく猛浪天をひたしつつ蒸気の動揺大かたならず,人々一粒の食も喉をとおらず,或いは吐却するものあり,又は転倒して苦声を発するもありて,目も当てられないさまなり。いずれも背は折形の如く縄にかかり腹這うさまはおかしくもあり又あわれにも覚えたり。(海路,日向灘より直行,四州の東を過ぎ遠州灘に向かう)

2008年1月26日 (土)

国事犯の護送(5)

003  右図大山綱吉・・明治維新の際,参謀として戊辰戦争に従軍その戦功により鹿児島県令を命じられる。西南戦争の際に西郷軍に組した科により長崎臨時裁判所で斬首(死刑)の刑に処せられた。

2008年1月19日 (土)

国事犯の護送(4)

 Photo_3                     明治10年10月30日,正午頃裁判所から呼び出しがあり皆々召出さる。戒めの縄は上陸の時の如し。裁判所で昼飯を喫食した後に法廷に呼び出される。国事犯20余名一時に名前を呼ばれ白洲(法廷)に出ると,法官1名出てきて刑の言い渡しを行う「その方儀,西郷隆盛逆意に与し,小隊監軍となり,衆を集め兵器を弄し官兵に抵抗する科,懲役10年申し付けるところ,情状酌量し,除族の上,3年懲役申し付ける。明治10年10月30日」言い渡しが終わるや,傍らに控えていた警吏,大声で「下がれ}と叱す。声に応じて石段を下がれば縄を改めて,緊しくも後ろ手に縛る。

 西南戦争に従軍した西郷軍の兵士の量刑は次の次のとおりである。

 首謀・参謀は斬首22名。大隊長級除族の上懲役10年31名・懲役7年11名。中隊長級除族の上懲役5年126名。小隊長級は除族の上懲役3年380名。半隊長級は除族の上懲役2年1183名。分隊長級は除族の上懲役1年614名。大小荷は除族の上懲役2年。押伍・伍長・給養・兵士は自宅謹慎。一旦降伏後再び薩軍に投じた者は除族の上懲役2年の判決とした。除族とは士族を平民におとす事である。

2008年1月17日 (木)

国事犯の護送(3)

                               Photo_2 明治10年10月27日,早朝飫肥の町に整列し検査終了後,それぞれ外浦めざして出発する。道端には老若男女群れて行き過ぎる国事犯の顔打守り,眉をひそめて相憐れむ気色ぞ見えたり。道程は僅か5里,平路なれば日も高きうちに外浦町へ到着せり。午後4時一同蒸気船に乗り込む。同29日蒸気船はことのほか早く,佐多の岬,山川沖,海門岳,北の方に桜島を見ながら進み,黄昏の頃には長崎港に到着する。                   

  同30日早朝長崎の役人に引き渡され,一同本艦より上陸する。岸端の所において二列に整列し戒めの縄をかけられ,更に両人ずつ結合し,更に警吏数名厳重に前後左右を警護し監獄に分送せらる。

2008年1月16日 (水)

国事犯の護送(2)

 Photo_5 明治10年10月15日,午後国事犯全員監房より庭外に出され警部より「明日長崎臨時裁判所に移送になるので,護送途中謹慎し監吏(職員)の指示に従って行動するように」との訓示があった。同月26日夜中より護送の準備をなし,早朝国事犯一同整列し宮崎学校門内に至れば,そこには各地より集合した国事犯に笠や茣蓙(ごさ)を配布していた。凡そ200余名,護送の監吏(警部・巡査等)20余名で明け方鳥の鳴く声とともに出発する。宮崎から大淀川を渡り中村町を通り清武町に至る。夜もふけて民家に至り松火を乞いこれを力に山路を行き亥の時刻に飫肥の町に着く。宿屋の主人は懇篤にもてなし,今宵は薬用なればとて酒や煙草が許された。

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